波音、というのは不思議なものだ。
ずっと同じリズムかと思えばそうではなく、独特の揺らぎを持っている。
不思議な音が心の奥底から棘のような記憶を呼び覚ます。
らしくない感傷だな、とグラシィは思った。時刻は夜。彼女は船室で横たわっていた。
(今が全てだと思い、過去のことなど切り捨ててきたつもりだったのに)
なぜだろう。今夜は彼が側にいるような気がする。
(風に、似ている男だったな)
つかみどころがない。
飄々としていて自由奔放に見えるのに、たまにどこか淋しげな表情をする。
あいつは私を哀れんでいたのだろうか?こんな生き方しかできない私を。

(しっかし、金にもならない仕事をやる気になるなんてね・・・・)
少しだけ変な気分がした。
それくらい、自分が思っているより多くの影響を与えてくれていたのだろう。
知らないうちに。自分でも気付かぬ間に。
グラシィは目を閉じる。
変わるきっかけをくれた人のことを思いながら。
ディード、私はアンタに何かを残してやれたのだろうか。
気がかりだった。憐れみとか、同情とか、そういうのでなく、何かを――――

                    


 抜けない棘 


アラスター・ディードと出会ったのは、私が泥沼のような人生を突っ走っていた頃だ。
今もあんまり変化が無いといえばそうだが、あの頃はそれが当然ように、生きるために殺していた。
もともと命という概念やら、信仰心やら、他人を慈しむ心なんかが私には欠けていたんじゃないかと思える。
微塵のためらいも見せずに人を殺せる。目標が誰であり取り逃さない。
調停者の成すべき事がそれだと信じていた。
あまりに冷酷非道で金の権化で恥知らずなその仕事ぶりを見て
「あの女の心は、硝子で出来ているんだ」と誰かが言った。
血が通わないって事だろうか。あながち間違ってない気もする。
だけどたまに、そういう自分に、世の中の全てに、嫌気が差すことがあった。
仕事をする気も起きないぐらいに。でも食っていくには、金が要る。
ほかの要の事なんて数えるほどしか知らないが、
要だからといって悠々自適に暮らしている奴は居ないと思う。
その辺りの矛盾も含めて、酒でも飲んで騙し騙しやっていくしか無い。

私と奴が会ったのは、そういう混沌とした日々の中。
なにも感じず、心を閉じて、汚れた両手だけを掲げ続けていた時。

気に入っている店がある。入り口が分かりにくくてマイナーな癖に、扉を開ければ常連客が沢山居る。
酒の種類が豊富で、マスターの人柄も良い。「バレルハウス」という店。
カウンターの一番奥の席が定位置。この席から見える景色はなぜか特別な気がする。
楽団の演奏に耳を傾けながらぼんやり酒を飲んでいると、やけに呑気な男の声が聞こえた。

「やぁマスター久しぶりっ、いつもの頼むよっ」
「おや、ディードさんお帰りなさい。相変わらずお元気そうですね」
「俺、それだけが取り柄だからさ!」
そこまで言ってから、カウンターの奥に見知らぬ女が居ることに気付いた。
「なァ・・・マスター、あの娘誰よ?」少し声をひそめて尋ねる。
「最近よくお見えになる方ですよ。静かに淡々と飲むのがお好きなようで・・・」
「こんばんはっ、いい夜だねェ」マスターの話が終わらないうちにディードは自分の愛用席に腰掛けた。
見知らぬ女の隣。思わず呼吸が止まりそうな、すごい目で睨まれた。おぉ、若干身の危険を感じる!
グラシィは無言で杯を傾ける。
馬鹿に構っていては酒が不味くなる。酒に対して失礼だ。
「嫌なことでもあったのか?」その男はにこにこしながら彼女の返答を待っている。
「・・・・・・・・別に」
ひとまず会話成功。
「何で隣の席に、って思った?実はこの席俺のお気に入りなんだよねー」
なぜこの男は聞いていないことを勝手にベラベラ喋るのだろう。
アラスター・ディードと名乗ったこの男の第一印象は「変な奴」だった。

奴はどうやらこの店の常連らしい。街から街へと荷物の運び屋をしているらしい。
いつも人の輪の中にいる。周りの人間から好かれているようだったし、
彼自身も人間好きなのだろう。見ていてそれと分かるくらいに。
そのくせ、いつの間にか酒ばかり飲んでいる自分の隣に座っていたりして、あなどれない。
相変わらずベラベラ話しかけてくるため、多少雑談をするようになった。
そのせいか常連さんや楽団員とも打ち解けられたような気がしないでもない。

「聞いていいかい?」「何を」
「あんたさ、どーして眼鏡なんかかけてんの?」ほっといてくれ。
「目が悪いわけでも無さそうなのに」
「・・・!?」
「お、図星?視力悪い人って眼鏡かけてても時々目を細めるからさぁ」
意外と侮れない馬鹿だ。
「ぜってー外した方がいいって、あんた美人なんだし!」
軽口を叩きながら勝手に眼鏡を外す。
「こら馬鹿、かえせっ!」
「俺にもちゃんと名前ってもんがあるんだけどね?」
「・・・死にたくなかったら返せ、アラスター・ディード。それは姉の形見だ」
薮をつついたら蛇がでたってこういう時のための表現?
「ごっ・・・御免!」
すみやかに眼鏡を返却し、全力で謝った。
誰だって命は惜しい。つまりはそういう事だ。
「もういいわよ鬱陶しい。今度やったら許さないから」
割とすんなり許して貰えたことを、彼は意外に思った。殴られると思っていたのだ。
(まったく・・・口だけは上手いなこの男)
彼女があっさり引き下がった理由は単純にして明快だった。
お世辞だと分かっていながらかなり動揺していたのだ。「美人」と言われた事に対して。
なぜか顔に熱がのぼる。こんな自分は知らない。
(酔ってんのかしら?)
自分の事なのに、分からないなんて。

なんだか良く分からない気分を抱えたまま淡々と仕事をこなし、
相変わらず夜には酒を飲んでいた。
ただし、アラスターのせいで量はかなり減った。
飲む隙を与えずに話しかけてくるとは、恐ろしい男である。
「なぁグラシィ」
・・・アラスターが勝手に付けたあだ名である。
「何?」
アラスターにしては声に元気が無かった。
「いや、言いたくなかったら別にいーんだけどさぁ」
「だから何なのよ」
「一体どうして殺し屋なんかやってんだ?」

・・・ごもっともな問いだ。時々私もそう思うことがある。
「なに、転職でもしたいの?お薦めはできないわねぇ」
精一杯の冗談でかわしてみた。しかし彼女は真顔だったので彼は本気と受け取った。
「そういう訳じゃねぇけどよ・・・ま、言いたくないならそれでいいんだ」
「聞いて欲しくなったら言うわ。そういうアンタはどうなの?」
「オレが運び屋やってる理由?」
「そう」
「向いてるかなーって思ったから。それだけ」
とても簡単な答えだった。
「他にできること・・・あんまり無いよーな気がしてたしなぁ・・・」
アラスターなりに思い返す過去があるようだ。
「色んな人と会えるしな!そういうのが良かったんだよ俺。毎日同じ仕事の繰り返しじゃなくってさ」
いやでもマスターみたいな人は尊敬してるけどね、と店主に話しかけた隙を見て、
グラシィは代金を置き、席を立った。店を出て、夜の街を歩き出す。
月明かりがさびしげに石造りの道を照らしている。
私も同じではないか。他に出来ることがない。
だからもうこの手は血に染まったまま・・・何も掴むことはできないのだと。
分かり切っていたはずの事を思った。


そして彼女は気付いた。自分はアラスター・ディードに尊敬の念を抱いていると。
なぜあんなにも、輝いて見えるのだろう。
真っ直ぐに、真っ当に足がかりを見つけて人生を歩んでいるように見える。
それがひどく、羨ましく、疎ましく、妬ましかった。そんな自分に反吐が出そうだった。
・・・・自分に好意を持ってくれている人を妬むなんてどうかしている。
これは恋なんて尊いものじゃない、憎悪だ。
純粋で奇麗で私には似合わないものへの歪んだ憧れ。
話してしまいたい。あの雨の日の出来事を。
そうすれば少しは何かが変わるかもしれない。
全てを理解して欲しい訳じゃない。もしかしたら、それで諦めてくれるかもしれない。
その方が今よりずっと良いのかもしれない。過去を告げれば、多分今の関係が全て崩れるのだ。
願ってもない事じゃないか。
・・・そう思う反面、どこかでそれを惜しんでいる自分がいる。
つまりアタシは―――嫌なのか、アイツか居なくなってしまうのが。
らしくない考えだ。
初めから他人じゃないか、どうせ。くだらない。

またそれから数日経ち、相変わらず彼女はディードの隣でだらだらと酒を飲んでいた。
「嫌な事でもあったのか?なんかハイペースに見えるけど」
「たぶん気のせいでしょ」
気のせいではない。マスターは密かに思った。
(これで何杯目だろう・・・?)と。
「ま、たまにゃそんな夜があるか」彼もまた淡々と飲み始めた。
今なら話してしまえるかもな、とグラシィは頭のどこかで思った。
「アラスター、私がなぜ殺し屋をしているか、聞いてきたことがあったな?」
「ああ」
「・・・話してやろうか」

「私は、人を殺して生き残った。ゴミ溜めのようなこの世界に」
・・・酒の力を借りなきゃ昔話も出来ないなんて、我ながら情けない。
「ダヴァンタージュの人形師、って知ってるか?」
「たしか・・・13人の女の子を暴行・殺害した上、人形にしちゃった事件―――だよな」
「本当の被害者は、15人だった。14人目は私の姉。生き残ったのは最後の一人・・・・つまり、私だ」
にやりと笑うグラシィを見て、ディードは唖然とした。
「犯人は殺害されて、事件は終わった。公的には自殺になってるけどね」
グラシィはじっと虚空を睨みながら呟いた。

「私があの人形師を殺したんだ」


それは、生きるために彼女が下した選択の一つ。
言うべき言葉を、ディードは見つけることができなかった。
つまるところ彼女を殺し屋にしたのは・・・・その狂った人形師なのだ。
彼女が男しか殺さないのは、復讐なのだろう。
これ以上は喋らない方が良いなと思い、グラシィは口を閉じた。
後悔はしていない。たぶん、これでよかったのだ。
なにも言わないままでいるよりは。


「久しぶりだなぁグラシィ、元気してた?」
「まぁ、ぼちぼちね・・・」
こうして会うのはあの夜以来だった。
彼はどう思ったのだろう。それを知るのが何故か嫌で、本当は会いたくなかった。
「マスター、いつもの頼むよ」「かしこまりました」

彼はいつも通りだった。
それが優しさなのか同情なのかよく分からない。
それでも、少しだけありがたいと思った。
こいつはそういう男なのだ。
初めてディードという人間が好かれている理由が判った気がした。

「そうだ、出先で変な女の子がいたよ。見たこともないような服でさー、
 首には首輪してたんだぜ、首輪ッ!」

「首輪ねぇ・・・身売りか趣味か分かんねーけど妙な話だわ・・・」
やっぱりグラシィに似てたなぁ、とディードは思った。
「何だったんだろうねあれは?迷子みたいな目をしてたよ」
「さぁね。あるいは本当に帰ることがどこにも無いのかもよ?」
住んでいる場所が必ずしも「帰る場所」であるとは限らない。

「あ、そーだ俺今度オプスキュールに配達行くんだよね。だからしばらく来れないや」
アインザッツからは少し距離がある。往復で一月はかかるだろう。
「帰ってきたら、さ」
「うん・・・?」
「聞いて欲しいことがあるんだ・・・」
いつになく目が真剣だった。
「・・・・・・聞いてあげてもいいわ。気を付けて行ってきな、ディード」
彼女がその名で彼を呼んだのは、初めてのことだった。
ディードだけがそれに気付き、密かに喜んでいたのだが、
口にした本人はそのことを知るよしもない。




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