もはや逃げ道はなく、男は部屋の隅で膝を抱えて震えるしかなかった。
がたがた、がたがた、がたがた。
怖い。歯の根が合わない。恐怖で顔が歪む。顔はすでに涙や涎や鼻水でぐしゃぐしゃだった。
頭をかかえ、耳を塞ぐが頭の中で不吉な音が響いている気がする。
どうして、という問いはもはや無意味だった。終わりが始まってしまっている。
逃げようと思って外に出た瞬間、彼は脱出の不可能を悟った。
街の人が別人のような顔で殺しに興じていた。
路地という路地は血に染まり、鈍い音と絶叫が鳴りやまない。
ごく普通の学生も、角のパン屋のおかみも、気の良いご隠居さんも。

――――――なんだこれは。

夢か。夢なのか。ならば早く覚めてくれ。と男は心から願った。
こんなことがあって良いはずがない。
命あるものが命そのものを・・・・蹂躙しているかのような。
「そ、そんな馬鹿なはっ、話があるか・・・・・すべっ、すべてのこ、ことっは・・・」
無駄なのか。踏みにじられて良いものなのか。本当に価値などないのか。
男は目に涙を浮かべながらぶつぶつ呟いた。
これまでの人生を思い返すと、命などどうでもよいと思っていた頃も確かにあった。
「だがっ・・・こっ、こんな・・・悲惨な・・・・おぞま、しい・・・さ、ながらあっ、悪夢のよぅ・・・・な」
途切れ途切れに嗚咽が混じる。男はついにうめき声をあげ、泣き出した。
気配が押し寄せてくる。
殺意と悪意の本流。巨大な怒り。圧倒的な負の感情。
「うぁ、うぅっ・・・・あ・・・ぁあ、あ」

笑い声が聞こえる。
近付いてくる。
わかる。
もう自分は死ぬのだ。それも、見知った街の人々に―――――屠られてしまう。
いやだ。死にたくない死ぬのはいやだ生きたい死にたくないただの肉塊になるくらいならせめて・・・・

(せめて、夢くらい持っていれば良かったんだな)

男は、自分の首が包丁で刎ねられたその瞬間に、悟った。
いつでもそうだ。
伸ばした手は掴もうとした瞬間・・・・・断ち切られるのだ。
命というものは、強く望んだ次の瞬間に失われる程度には、残酷であると。

                                




<第12話 夜征く者、そして廻り始めた輪 −前編−>



馬車に揺られながら見上げた空は、今にも雨が降り出しそうな、どんよりとした曇り空だった。
故郷を後にして3日。馬車は走り詰めだった。馬車が向かっている先はガイセルド帝国、帝都ペザンテ。
技術の粋を集めて建てられたペザンテ城を中心とした国内最大規模の城下町がある。
「あと半日もすれば到着しますよ」
ガイセルド兵の若者が声を掛けてきた。言われて、空から馬車の中に目を移す。
「多分、局長は既に着いてる筈です」 局長、というのはあの胡散臭い男の事だ。
「そうなんですか。」一応返事だけしておく。
なぜかは分からないが、この3日間自分は大して酷い扱いを受けていない。
だからといって城に行っても無事とは限らないのだが。
微妙な沈黙のあと、自然に疑問を口にしていた。「あの、どうして私はまともに扱われてるんでしょう?」
しまった、何か言葉が変だ。シスターは内心狼狽えていたが、
それ以上に問われたことに驚いていたのは若い兵士だった。
「どうして、って・・・・」ここで兵士―――名はフォルトと言った――は答えを探してしまった。
直球勝負は苦手なのだ。
「私が羊羹の汚染を癒す力を持つ“要”だからですか?」フォルトが言うより先に、シスターは呟いた。
若者は戸惑っていた。「いやぁの、それもあるんですけど・・・・そのですねぇ・・・」
なんだか煮え切らない態度だ。
「なんでしょうか?」他にも何か理由があるのか。シスターの青い瞳がフォルトを見つめた。
(うわぁあ・・・)
聖職者の眼差しには勝てない。ガイセルド帝国騎士団、下っ端歴3年。万年雑用男フォルトは痛感した。
もういいや。話してしまえ。
「局長の命令、なんですよね・・・・くれぐれも丁重に扱うようにと言われていて」頬を掻きながら若者は答えた。
「あ、すみません。あんまり良い気分じゃないですよね、こういうの」
つい気を使ってしまうフォルトを見て思わず笑ってしまう。
「いいえ。命令だと申して頂いた方がすっきりしますわ」
「そう言って貰えると幸いです」フォルトは、心底安堵した。
でも、本心から護りたいと思っているんですよ・・・・・口にはできないからせめて、心の中で語りかけた。

「見えてきたぜ・・・“死の都”ペザンテが」馬を走らせながら、からかい混じりに御者が言った。
「もうっ、そういうこと言うのやめて下さいよイディリオさん」
「だって、事実だろうがよぉ」そう言って、御者はけたけた笑う。
「なんだか物騒な響きですね」シスターは死、という言葉に眉を寄せた。
少し考えて、フォルトは口を開いた。「ペザンテは、一度滅んだ街です」シスターは思わず顔をあげた。
「世界で初めて羊羹が発見されたのが、あの街です。感染した住人は暴徒と化し、人々は殺し合った
 ――――フレデリカが、現れたときに」
「おいフォルト。今更過ぎた話蒸し返すんじゃねぇよ。それこそ局長に叱られっぞ?」
それまで馬車の中で寝ていた男が雑魚寝したまま言った。
しかし、その言葉は届かない。話すことで見えない何かを越えようとしているみたいだった。
「騎士団は、たまたま不在だった。駐屯の者を残して全員、プラチードとの会談へ向かう閣下の護衛についていた」
シスターは口を挟んでいいのか分からない。何も言えなかった。
「帝都に戻ったとき、既に全ては終わっていた。生存者はいなかった。
街の人も、駐屯の兵士も、子供も、年寄りも、一人残らず殺し合って、死んでいた」
「ひどい有様だった。それまでの暮らしの方が嘘みたいだった」フォルトの話を聞いていた他の兵士も、続ける。
「所帯持ちの奴が可哀想だったな。
一番護りたかった嫁さんや娘さんを護れなかった、って今でも悔やんでるし・・・・」
「まず、犠牲者を一気に弔ったよなぁ・・・・そうするしかなったから」苦々しく、雑魚寝の男が吐き捨てる。
「気付けば見知らぬ者が王座にいた。ペザンテ城はあの日から光を失った」若者は淡々と告げた。
「なぜか分からんが、あれは人の心を操る」
あれ、というのはフレデリカのことだ。
「恐怖から下についた者もいる。田舎に逃げ帰ったものもいる。徴兵で無理矢理入団させられた奴もいる。
俺たちみたいに割とまともなのは、局長が拾ってくれた・・・」
それきり、馬車の中は沈黙に包まれた。
各々が気持ちの整理をつけようとしている様だった。

街道の遙か向こうからでも分かる巨大な城。
あれこそ、ガイセルド帝国の中心地にしてフレデリカが乗っ取った城。
すべての災いの源が巣くう地。




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