『あなたの手の内から我々を解き放ってください。
我々は弱い。あなたが存在する限り頼り続けるでしょう。
あるいは頼られることを、あなたが苦痛に感じていないとしても……
それでは駄目なのです。
既に我々には歩くための二本の足があり、自由に動かすことの出来る両の腕がある。
考えるための頭もあるし、聞くことも見ることも話すこともできます。

いずれは子が、自らを生きるために親元を離れるように。
親が愛ゆえに子どもの手を放すように、我々を手放して下さい。
あなたを失えば我々が過ちを犯すことなど分かっています。
それでも、間違わなければ学べぬこともあるのです。

全てを聞いていた創造主は言いました。
「それでは、私は退くことにいたしましょう」
自らが創り出したこの世界の全てを、愛するがゆえに。

「ただし、あなた方に私の力を一つずつ分け与え、世界を見守る役目を授けましょう」

そうして静かに、ただ静かに微笑んでいました』

神の愛はなお世界に満ち、目に見えぬ大気に至るまで恵みの力に溢れているというのに
なぜ我等は気付くことができないのだろうか?
愛は盲目であるがゆえに気付かないのか。

気付いていてなお、剣を取るというのか。
人よ、失われた過去を見よ。
崩れた遺跡の欠片より真実を学べ。


民俗学者アド・リビトゥム 『神世の終わりを語る三つの碑文』





< 最終話 いつか星空の下で −1− >



世界は目に見えぬ網に被われている。
それは外敵の侵入を防ぎ、この世界から他の世界へ渡ろうとするものを阻む。
見えない壁。セーフティネットとか言うらしいが、詳しいことは知らない。
グラシィが理屈も分からぬままにあちこちの綻びを晶の力で修復していると、
創造主が現れた。
……ただし、一度見た時とは違う。足元まで届きそうな長い髪に、ほっそりとした体躯。
額には赤い宝石が煌めき、背には大きな翼。頭上の光輪は神々しく光り輝いている。
(なるほど、こっちが本当の姿なのか……納得だわ)
呆然としていると、創造主が口火を切った。

「あなたには、いつも苦労をかけますね……」
私はこの神を残酷だ、無能だと罵る権利を持っているのかもしれない。
もし神が運命さえ左右するのならば、すいぶんと酷な仕打ちをうけている。
呪いのような力と役割を一方的に与えておいて、大事な人の一人さえ助けることが出来ない。
(あたしが欲しいのは、いたわりの言葉なんかじゃない)
神だと言うのなら死せる者を生き返らせてみせろ。奇跡を示せ。
ほんの一瞬に、様々な感情が炎のように駆けめぐったが
ぐっとそれらを抑え込んで、グラシィは言う。
「…………それでも……あんたがこの世界を離れたのは、
 あんたがいれば私達は何もかも全てを放棄して、縋りついちまうからでしょう」

神が退いたのは人々が欲にかられ、安易に奇跡を求めすぎたからだ。
疲弊した神は自らが作り出したものに力を分け与え、この地を去った。
だから、わたしたちがいる。十三の要。神のしもべが。
「あなたは、強いひとですね」
「……強くなんか、ねぇわ」
願っても、指先一つ動かすだけで羊羹の犠牲者が甦るような奇跡は起こらない。
それはこの神も知っているのだ。
起きてしまったことは、どうすることもできない。
(だからあたしは……何も言わない。願っちゃ駄目だ)
泣いても喚いても、失われた命は帰ってこない。
ふいに、温もりを感じた。この身体は精神体なのに?
何故だろうと思っていたら、創造主に抱きしめられていた。
「お戻りなさい、調停者グラシィ。あとは私が引き受けます……」

目が醒めると、アオリを打ち負かした塔の中だった。
あちこちにできていたはずの擦り傷が消え、精神体から肉体に戻った後特有の頭痛もない。
(……こんなことぐらいで、帳消しにゃならないけどね)
溜息をつきながら身を起こすと、傍らに一枚のディスクが落ちていた。
(あとはこれを、作った馬鹿に返すだけだ)


羊羹の大量投下によって壊された網を、創造主は修復し、より強固なものへと変えた。
そうして、世界は光を取り戻す。


老いた占い師は呆然と立ちつくしていた。唇が震える。
「……邪悪な気配が、消えた」
昨夜の夕暮れ、天に現れた龍――強大な氣の塊――を見て以降、
何かが急速に静まっていくのを感じていた。
あらゆる濁りは消え去り、ここに流れは正された。
聖域には灯が戻り、長き闇に覆われていた世界を優しく照らし出していた。
仰ぎ見た空は、どこまでも清く突き抜けていくような青色。
「尊き女神アークウィングよ……この地に生きる全ての命を慈しむあなたに、感謝を」
グラーヴェは我が身に命があることと、この地が無事であることのありがたさを噛み締めた。
祈りの言葉を呟きながら、瞼の裏に浮かんだのはいつか占ったエレヴァートの青年の姿。
(かの者も、どこかで空を見上げておるだろうか……)
黒き嵐は終わった。彼の復讐もまた、終わったのだ。

ソアーヴェの浜辺には、人が押し寄せていた。
「羊羹が固まってるんだよ!」
「なんだって、本当なのかい……あの黒き悪魔が!?」
「とりあえず一カ所に集めておこうってことになったみたい」
「さ、触っても大丈夫なんだよね?」
「教会の神父さんが近くの荒れ畑に置いとけってさ」
「とにかく片っ端から片付けていこう。さぁ散れちびすけども!」
「「はーい」」
「あっ、うみうしめっけ〜」
「にぎゃあっ、持ってこないでよこっちに!!」
浜辺には、押し寄せた大小さまざまな羊羹があちこちに転がっていた。 「終わったらごはんだからねー」
「うわーい」「よしっ、いっちゃん多く取った奴が勝ちな!」
人々は、貝拾いでもするような陽気さで、自分たちを苦しめてきたものを拾い集めていった。
みるみるうちに山のように積み上がる羊羹を、男達が運んでいく。
「……ねぇ、これ煮て食べたら美味しいかしら?」
「腹壊すとおもうぞ」「意外と旨いに一票」
「つーか、固いから歯が折れますよ」
「あらそう? 残念」
あちこちの村で、街で、同じ事が起こっていた。
動かず、汚染する力も持たぬ羊羹はただの邪魔くさい固まりであった。


その日は、世界各地の教会で祈りを捧げる人が増えた。
普段教会に寄りつかないような者も、思わず教会に入り何者かに祈らずにはおれなかった。
奇跡が起こったのだ。
もうこのまま終わりを待つしかないと思っていたのに、自分たちは助かった。
時満ちて事成れり。悪夢は去った。
いずこかに、確かに神は居るのだと人々は実感した。
今日はきっと、祝福の日だ。
大地に喜びが溢れ、人々は大いに騒ぎ、かつ飲み、舞い、歌った。
怯えて暮らす日々は、ついに終わったのだ。
失われたものは多く、悲しみは簡単には癒えないだろう。
それでも、命ある今を噛み締めるように、誰もが喜びの渦の中にいる。
時が経てば、孫やひ孫を膝にのせ、今日の喜びを何度も何度も語るに違いない。



カント=コンフィナリスは、世の中には切り替えが早い人間がいるものだな、と思っていた。
定期船に乗って聖域を訪れたのは、ノージュ教の関係者らしい。
フードを被ったままなので詳細は分からないが話しぶりが淡々としているので下っ端ではない気がする。
あまり背の高くないその人物は、島のあちこちを見て回った後、カントに向かってこう言った。
「青年、金儲けをしようじゃないか」
「……はぁ」
唐突な申し出である。今の彼にはツッコミを入れる気力もなかった。
「ここは創造主の降り立った地だ。だから、誰もが来たがっているのさ」
「確かにそんな話は何度もあったようだが……」
エレヴァートは突っぱねてきた。不可侵の地であると、何度も何度も主張してきたのである。
(守護者ひとり、か……)
ううむ、困った。年長者の判断を仰ぎたい所だが、頼れるものがいない。

「現状維持、新しく築くもの一切無し。ただし一人で切り盛りするのは大変だろうし、
 守護者の役目もあるだろうから何人か住み込みで働く奴がいて、後は人々が来て詣でて帰る」
べらべらと勝手な計画を喋っている。なんだか頭が痛くなってきた。
「然し、人が大量に死んだ場だ……物見遊山に使うのはどうかと思うが」
「なぁに、この世で墓地でない場所など無いさ」
とんでもない生臭坊主もいたもんだな、と思った。
同時に、生き残ったのがただ一人なら、掟を守り続ける必要も無いのかもしれないと。
「そうそう、大事な事を言ってなかった。我等は祖を同じくするものだ」
ばさりとフードを取った教会の使者は驚くほどあどけない顔つきをしていた。
緑がかった銀色の髪。瞳は、深き森の如き静けさに満ちている。
「ル=ティエロア」
「……“知を識る者”?」
「そうだとも。常闇の森には、この地が開放されることを夢見ていた者達も居る」
「あんたも、その一人だったのか」
「まぁね。森の奥に引き篭もるのも飽きたから、あちこち渡り歩いているのさ」
驚いた。確かにこの島から外に出て行った者達が居たという話は聞いたことがあった。
「どうするかね、青年。ここに“道”を開いても良いか?」
「道……?」

「そう。我等が故郷へ至る道だ。場合によってはこちらに住みたがる者もいるかもしれない」
「あんたは……一体」

「私は“道”を開く者。
 もしも君が望むなら、忘却の大陸と、最果ての島にも“道”を開こう。
 彼等もまた祖を同じくし、この地に憧れを抱いているよ」
「あんたの話が本当なら……おれは」
自分でも知らないうちに、涙がこぼれていた。
「そうさ、君は独りじゃあない。いつか遠い未来、もう一度ここに村が甦るかもな」
少女は宙に浮いていた。
カントと目の高さを合わせる。
守護者としての力だろうか。この子は、“道”を開けばきっと消えてしまう。
すでに実体は失われていることがわかった。
それでもなお、俺に、聖域の民に力を貸してくれるというのか。

『生き残った者達に祝福あれ』

少女が言霊を口にした刹那、光り輝く道が見えた。
ふわりと頬を風が撫でる。
『少し時間がかかるけど、大丈夫。みんな手伝ってくれてるから……』
みんな、というのがどこからどこまでを指すのか分からなかった。
一夜にして滅ぼされた同胞たちなのか、この地に生きて死んでいった祖先達なのか、
カントの見たことのない、各地へ散っていった者達のことなのか。

それでも、今はっきりと分かっていることがある。
自分はこの世界に生きているのではなく、生かされているのだと。
涙をぬぐい、空を見上げる。
太陽の光が目に染みた。





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